「人間は考える葦」であり、理性を取り外してしまえば、他のほ乳類と何ら変わりはなくなる。個人の欲望や欲求を法という規範を設けて規制しながら、その極限まで鬩ぎ合いを続けようとする現代社会・・・まさに人間としての尊厳をすら捨て去ろうとしている様に思えてなりません。
二十一世紀、我々人類はこれまでと全く異なる新たな世紀に突入した、と考えなければならない。ウイットゲンシュタインが反哲学的断章の中で「以前の文化は瓦礫の山となり、最後は灰の山となるだろう」といみじくも述べている通り、紀元後二十世紀を経た人類史はその(灰の山)たらんべき方向へ、一目散に走り続けてきた様な気がする。
現生人類(ホモサピエンス)が存在の証としてその足跡を残し始めた紀元前四千年位いから、今日に至るまでの凡そ六千年の間、人類の歴史は、自らの利益を追求する事から必然的に起こる闘争の歴史だったと言っても過言ではないだろう。古くは部族間の支配・被支配の物語から始まり、民族間の争い、国家と国家の戦い、先進諸国の帝国主義的侵略と後進諸国と命名された国々の不条理な隷従・そして二十世紀に至って拡大された覇権争奪の為の二度に亘る世界大戦という歴史。国益という錦の御旗の基で、まさに見苦しいばかりの欲望を剝き出しにした果てしない殺戮の歴史。これが今日まで進化し続けて来た人類の歴史であると言っても過言ではないだろう。
気が付けば、猖獗(しょうけつ)する経済至上主義と核開発・・・あまりにも身勝手な石化燃料の浪費・・。これらの愚かな仕儀によって、今人類は、かけがえのないこの地球を破壊し尽くそうとしている。ウイットゲンシュタインの言う「灰の山」に向かって、何時の間にか一直線に突き進んで来てしまったのだ。
ビッグバン以来、太陽系第三惑星の中で順調に進行して来ていた人類の歴史が、一体何処でそのボタンをかけ間違えてしまったのだろうか・・・。
今我々人類が直面しているこれらの問題を解決する為に最も必要な事は、「何故、自分が生きているのか」という哲学的な答えを見け出す以外にその解決を図ることはできない。
ボストン美術館にある、ポール・ゴーギャンがタヒチで描いた最後の作品「我々は何処から来て、何処にいて、これから何処へ行くのか」と言う問いに明確に答え得た者は、今日に至るまで誰もいない。しかし、今の我々は、科学の進歩によって、その具体的な考証をある程度までスペキュレーション出来る位置にまで漸く辿り着きつつある。人間が特別な存在である、という思い上がった考え方を捨てて存在そのものを謙虚に見つめれば、今迄とは全く異なった推考が可能となって来るのではないだろうか。
8/10/2012 笹岡 哲
人はすべからく謙虚にならなければいけない。何故なら自分一人では決して生まれては来れない。たった一人で生きても行けない。人類としての歴史・・地球の歴史・・宇宙の営み・・すべてが始まったビッグバン・・これらのどれが欠けても我々は今日生きてはいない。人間にだけ限ってみても自分の生命が21世紀の今を生きているという事は、数限りない奇跡と脈々として受け継いできた命の繋がりの上に成り立っているものだという事を忘れてはならない。
表現を変えれば、「自らの命は他の命の為にのみにあり、他の命は自らの命を育んでくれる為に共存している」という事を決して忘れてはいけない。生きるとはすなわちー他の命の為に生きるーという事ではないだろうか。自らの利益だけを汲々として追い求め、自分が・自分たちが・自分たちの国が良ければばそれでいい、とする考え方は一刻も早く捨て去ってしまわなければ本当の平和は来ないのでは無いかと思う。何時まで経っても何故自分が生きているのかが理解できず、本能の欲求(物・金・権力)を理性で克服して行くという人間の最も人間らしい行動を、今のままで実現して行くことはとても困難な事に思える。