「集団的自衛権」の行使が今国会で承認されようとしています。日本の政治家達の心根は心底腐り果てています。彼らの集団的自衛権容認に傾く真意は、自分の政治家としての無能さを喧伝しているだけだと我々市民は気付かなければなりません。武力に頼らずに国際間の諸問題を解決する道を選択する政治力も哲学も、そして肝心の度胸すらも彼らには皆無なのです。日常の中で常に平和安定への外交努力が足りないから、今日の様な危機を招いているのです。彼ら愚昧な政治家が責任逃れをしようとしてしているのが「集団的自衛権の行使容認」なのです。

 かって日本政府は満蒙開拓団の人々を棄民として見捨て、軍部と警察官達だけがソ連侵攻前夜の1945年8月9日に列車に飛び乗って逃げて行きました。ツンボ桟敷に置かれ、ソ連の飛行機や戦車の襲来にあわてて逃げだしたのは、満州の荒野に見捨てられた日本の婦女子達でした。どの世界に最も弱い婦女子を見捨てて己たちだけが逃げ出した軍隊がいたでしょうか。結局彼女達の内の500人は満州の麻山で集団自決を遂げました。


       Photo by sonegoro
Photo by sonegoro

      -より子の夏ー   

(1)八月の暑い夏、満州の野にはお父さんたちが苦労して育ててきた高粱が、すくすくと育ち、うす黄色のおひげさんが銀色に輝いていました。風が通り過ぎてゆくたびに、それがザワザワと揺れています。
 より子は朝の涼しいうちに起きて、外の井戸からポンプで冷たい水を汲みあげ、手と顔を洗うと、畑になっているキュウリとトマトを捥(も)いで、お水で洗って竹かごにいれておうちに入りました。おかあさんはおくどさんでご飯を炊いています。火吹き竹で火に息を吹きかけ、槇を真っ赤に燃やしています。そして時々目に入る煙に顔をしかめ、より子の方を見て笑顔を見せてくれます。
 妹のさと子と弟の幸太も丸い食卓につき、「おはよう」と元気に起きて来たおとうさんに全員で「おはようございます」といいます。お母さんは炊き上がったご飯を入れた御ひつから、いいにおい匂いのするご飯を一人ずつおちゃわんに盛ってくれます。お父さんの前に山盛りのごはんが置かれたところで、「いただきます」と云うが早いか、みんなのお口いっぱいに、ご飯がつめこまれていきます。幸太も口いっぱいに息が出来ない程につめこみ、お口のまわりについたご飯粒を、おかあさんが一つ一つつまんでは自分の口に入れています。「幸ちゃん入れ過ぎだよ~」と云ったさと子も両方の頬がたまごになっています。
 
 より子が5才の時に、ここへお父さんとお母さん、そして未だよちよち歩きだったさと子と一緒に満州のこの開拓団来ました。お爺さんやお婆さんたちと別れるのはとても悲しかったけれども、お母さんの手をしっかりと握って、前を歩くお父さんとさと子の姿を見つめて、こぼれそうになる涙をこらえて歩きました。お婆さんは両手を合わせて何時までも私たちを見送ってくれていました。長野の畑にはリンゴが小さくふくらみ始めていました。
 開拓団へ行く人はとても沢山いて、みんなで汽車に乗り、お船に揺られ、又汽車に乗って、ながいながい旅でした。
 
(2)より子とさと子は近くに住むマー君と一緒にブタさん達をお散歩につれていきました。満州人のマー君の家ではブタさんの他にもウシさんやヒツジさん、そしてニワトリさんやネコさんもいました。より子の家では大好きなサスケというイヌ君がいました。1年ほど前、野原の片隅で血を流して弱っていたのを、お父さんが抱きかかえて連れ帰ってきたのです。オオカミさんの群れに襲われたのだろうとお父さんは言っていました。お母さんがドクダミを煮詰めて作ったお薬をサスケの傷に塗り込み、しばらく自分でなめたり出来ない様に、包帯を巻いてあげました。元気になってからは、何時もより子達と一緒でした。お散歩に行くときはサスケがさっそうと皆を引き連れて行きます。
 サスケの後にはブタさん、ヒツジさん、ウシさんと続き、より子とマー君、さと子がついて行きます。ヒツジさんやブタさんが列をはずれると、サスケはすぐに近づいて行ってワンワンと言いながら元にもどします。野原の散歩の帰りには、たいがいさと子がくたびれます。マー君はさと子の身体を軽々と持ち上げ、ウシさんの背中にさと子を乗っけます。
 長野のように高い山がなく、なだらかな丘の様な山があるだけで、その麓まズーと麦畑が広がっています。白樺の木がものすごく大きくて、枝にくっついた可愛らしい葉っぱが風にそよそよと揺れています。満州の夏は短く、すぐ秋になってしまいます。麦畑がいっせいに波を打ったように揺れてかがやき、晴れ渡った青空の下を、心地よい風がサァーと吹きすぎて行きました。
 
(3)夏休みになって、その日(8月9日)も畑でお母さんと雑草取りをしていました。より子が今迄全く聴いた事のない音が遠くの方から聴こえてきました。「ゴォー」という低くて重い、不気味な音でした。お母さんの顔が急に曇りました。遠くでクワを振るっているお父さんの方を見やりました。お父さんもクワを振るう手を休めて、北の方角を、手をかざして見ていました。「グゥォー」という恐ろしい音がだんだん近ずいて来ます。黒い小さな点がだんだん大きくなって、時々キラキラと光りながら近ずいて来ます。幸太の傍で座っていたさと子もお空を見上げていました。
 お母さんは手を止めると、「より子、こっちに来なさい」と云って幸太の入っているカゴの傍へ行きました。より子も汚れた手をお洋服にこすり付けながら、畑のあぜ道で空を見上げているお母さんのところへ行きました。
お父さんもすぐ近くにきてより子の肩を抱きながら、空をジーと見上げていました。
お耳をつんざくような轟音を響かせて、飛行機はより子たちの真上を飛び過ぎて行きました。
「あれはどこの飛行機ですか」とお母さんが訊きました。
「判らないが日本のではない。アメリカ軍が陥落した沖縄から飛んできたのか・・ソ連は不可侵条約が未だ生きているから、侵攻してくる筈はないのだが・・」といってその飛び去って行く彼方を見つめていました。
  留守家族を守る為の区長をしていたお父さんは、より子達に「おうちに入っていなさい」と云うと、お母さんに「これから何が起こるか判らないけど、とりあえず緊急の食料や荷物をととのえて待っているように。何時でも出かけられる用意をしておきなさい」といって、団の事務所の方へ駈け出して行きました。
    「麻山事件」 中村雪子著 より
「麻山事件」 中村雪子著 より
 (4)8月10日・朝8時に開拓団の人達は本部前に集まりました。昨夜、より子の家にはマー君とお父さんの王さんが来ていました。マー君も心配そうな顔をして、ガッチリとした身体を不安げに揺らしながら、より子を見つめていました。「日本人はロモーズ(ロシア人)が来たら、我々を見捨てていくのだろう」と王さんはお父さんに言いました。「決してそんなことはありません。私たちは一緒に働いてきた仲ではないですか・・生きるのも逃げるのもいつも一緒です」としかっりした口調で話していました。より子はすこし安心しましたが、(そうか・ロモーズが悪いのか)と思って、天井を見上げながらキッと口を結びました。幸太を寝かして添い寝をしているさと子も不安げに皆の話を聴いていました。
 しかし、その後お父さんが再び団の本部へ行って、団長さんから県の引揚命令を受けた時、王さんの話を団長さんにした時、「県長からの命令なのだ、君も辛いだろうが・・」と云われたそうです。
 お母さんはその夜遅くまで荷物の整理をしていましたが、手伝っていたより子にその話をしてくれました。急に涙ぐんでしまったより子を抱いて、「しかたがない事も沢山あるのよ。満州人の中には王さんのようにいい人ばかりでなくて、日本人を心底憎んでいる人達も大勢いるのだから・。」と云って、長くなったより子の髪を撫ぜてくれていました。
 
 集合した人々は1000人近く、皆それぞれマチマチの格好と支度をしていました。馬車に荷物を満載している人、仏壇だけを背中に括り付けているおばあさん、竹竿に振り分け荷物にしている人、より子の家はお馬さんが居ましたが、これはお父さんが団の人達を守るためにアチコチと走り回るのに必要だったので、より子達は徒歩でした。お母さんは幸太を胸前に括り付け、背中には大きなリュックを背負っていました。より子もさと子もリュックを背負い、アルマイトの水筒をぶら下げていました。サスケはただひたすらにより子たちの回りをくっついて歩いていました。
 団長さんがこれから向かうという鶏寧(ケイネイ)の方角にはすでに黒煙があちこちで上がっていました。昨日朝から頻繁に飛んできていたソ連の飛行機が、駅舎を攻撃していました。警察隊長の奥さんのフサエさんがお母さんに話していました。「あれは平陽鎮にある物資集積所が攻撃を受けているようです。実は昨日私たちのところへトラックがきて、これに乗って引き揚げるように指示があったのです。でも主人も私も開拓団の人達を置いては行けないと断ったんです」と。より子は何も知らない処で、色んなことが起こっているのだと思い、底知れない怖さが身体の中から湧き上ってきました。
 
(5)より子たちが鶏寧の駅に着くとそこはすでにソ連機の繰り返しの攻撃を受けて燃え盛っていました。我先に列車に乗ろうとする人々でごった返し、客車も貨物車も人々の叫びあい、ののしり合うばかりの声が煙の中から聞こえて来ます。駅の前にはお馬さんの死体と人々の死体が横たわり、そこに銀色をした小さなハエがいっぱい集っていました。しばらく開拓団の人たちと話しあっていた団長さんは、このまま通りすぎようと決断しました。とても1000人もの人が入りこむことは出来そうもありませんでした。この時、団長さんの心の中には、「どのようにして哈達河(ハタホ)開拓団の人達を安全なところまで送って行けるのか」という思案でいっぱいでした。
 なにしろ県令からの命令は「鶏寧まで行き、そこでソ連を迎え撃つ」とだけ書かれてあったのです。しかし鶏寧にあったのは燃え盛る駅舎と、我先に逃げようと右往左往し、弱いものを突き落として乗り込もうとする阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄絵図だけでした。日本人を守るべき関東軍は何処にも見えませんでした。そこに在ったのは波状攻撃で押し寄せ、機銃掃射を浴びせ、あざ笑うように飛び交うソ連機だけでした。
 1000人以上の人の長い列が、炎天下の北満の地をゆっくりと動き出しました。より子はさと子の手をしっかりと握り、キッと胸をはって歩き出しました。お母さんもより子とさと子を守るように、幸太を胸に抱きながら微笑んでくれていました。
 
 鶏寧の駅から少し歩いたところの道端で、女の人が「見るな~見るな~」と叫んでいました。より子はどうしたのだろうとお母さんの方を見ました。「大変だわ」と一言いうと、おかあさんは胸前の幸太のタスキをゆるめ、幸太をより子に渡し、リュックを降ろすと、そこから白いサラシの布を取り出し、「みんなと荷物を頼むわよ」とより子に言って、その女の人のところへ駈け出して行きました。そして、たまたま馬車で通りかかった茨城村の君子さんに「君子さ~ん、何とかしてお水をちょうだ~い」と叫んでいました。君子さんは事情がすべて呑み込めたのでしょう、子供達4人を馬車にのせたまま、積んであったバケツを2つ持って、下の河原へ駈け出して行きました。
 より子はさと子に幸太を預け、「ここでじっとしているのよ」と云うと、君子さんの後を追ってかけて行きました。かけよって来たより子に気づくと、君子さんは「来てくれたの~助かるわ~」といってより子の手にバケツの一つを渡してくれました。「こんなところでお産をするなんて、たいへんネ~」と云いながら、バケツをジャブーンと川の中へ入れ、お水でいっぱいにしました。そしてそのお水を少し減らしてより子に渡しました。君子さんが持つもう一つのバケツにはお水がいっぱいでした。幸太が生まれた時はより子もお湯を沸かしたり、タライにお湯をいっぱいにしたり、生まれた瞬間にへその緒を切ったりするところを見ていて、お産のことは少し知っていたので、何かお手伝いが出来そうと思ったのでした。お母さんのそばへ行くと、もう少しで赤ちゃんの体が出てくるところでした。
 
 女たちの戦いは時と場所を選ばずやってきます。この時、別の場所でもお産が始まっていました。児玉さん夫婦のお産でした。奥さんは「家でお産すると云うのに、こんなところまで連れてくるから・・」と旦那さんを非難し、満州人の納屋でお産をしました。しかしそこへ持ち主の満人が来て、子供と奥さんを自分のものにすると言って、児玉さんはその場でなぶり殺しにされたそうです。
 
   Photo by sonegoro
Photo by sonegoro
(6)遠くから又爆音が聞こえて来ます。そして今迄は列車ばかりを狙っていた飛行機が、今度は避難民の方へ向かった来ました。「みんな、早くやぶに逃げて・」という聞きなれた声が聞こえてきました。「お父さんだ」さと子もより子も同時に振り返りました。お母さんも思わず「おとうさ~ん」と叫んでいました。団のトラックに荷物を積んだり、事務所の整理をしたりして、ようやく追いついて来たと云って馬から飛び降りました。「みんな元気か」とより子達を見た後、「さあみんな馬車をおりて、高粱畑に隠れて」と急き立てました。後ろから道路の真上をソ連機数機が一直線にやってきます。
 みんなそのまま大慌てで高粱畑に飛び込み、身体を隠しました。お父さんはより子とさと子を脇に抱えるようにして道路を下り、畑にしゃがみ込ませました。すぐ後ろを幸太を抱いたお母さんも続きました。みんな怖くて息も出来ない程でした。目の前で轟音と共に、「バリバリバリ」と引き裂くような音がしたかと思うと、土煙がはじけるように上がり、馬車の真上を飛んで行きます。お馬さんが何頭も倒れて行きました。サスケが血の匂いを嗅いで「ウーウー」と低く唸ってます。より子が高粱の中でサスケの首にしがみつくと、ようやく安心したのか緊張していた身体をゆるめ、より子の顔をなめてきました。
 遠くへ去ったと思ったソ連機がUターンをして再びこちらに向かって来ます。今度は高粱畑に隠れている避難民を直接ねらってきました。身を隠せるようなところは他になく、お父さんに肩を抱かれてより子とさと子はひたすらじっとしているより方法はありませんでした。ガサガサガサと銃弾が高粱の葉をなぎたおして行き、ギャと声を上げて近くで別の開拓団のおじいさんが、その場で動かなくなってしまいました。飛行機が遠くへ飛び去ってから近づいてみると、おじいさんの身体の下には女の子がいて、その子はまだ生きていました。からだを振るわせて泣くことささえ出来ないようでした。お父さんはその子を抱きあげ、そして背中におんぶして黙って歩き出しました。おじいさんをどうする事も出来ませんでした。
 家族あげて満蒙開拓団に加わり、お国の為にと情熱を燃やした結果がこれでした。
 道に上がると、馬車は殆ど壊され、道のあちこちには人々の死体や馬の死体がころがっていました。死体はまるでボロ雑巾が投げ捨てられている様でした。投げ出された荷物を少し集めて背中に背負っていくのが精いっぱいでした。歩き出した避難民の群れはただひたすらにノロノロと歩くだけでした。さと子の足を見ると、すでにズックの靴は破れ、ほとんど靴の役目をはたしていませんでした。より子も同じでした。血がにじんで渇き、黒く変色していました。それでも何もいわず、唇をかみしめて、前をみつめて歩きました。
 悪い事に雨が降り出し、それは夜が近ずくにつれさらに激しく降って来ました。遠くではまだ大砲の無慈悲な音が聞こえ、振り向く鶏寧の街も、先方の滴道の方も赤く燃えて、煙が上がっていました。しかしみんなは何とか隊列について行く他はありませんでした。隊列から外れたり遅れたりすると、満人達がよって来て暴力を振るい、荷物を奪い、暴行される事もしばしばでした。積み重なる日本人への恨みが爆発しているかのようでした。
 夜、団長さんは一時行動を中止しました。殆んどの人が動けない程疲労していました。立ったまま眠っている人もいました。より子達は持ってきた毛布でみんな身体を寄せ合って座ったまま眠ろうとしましたが、たちまち毛布はぐっしょりと濡れてしまいました。伝令の人が来て、お父さんに「団長さんが呼んでいる」と伝えました。「じゃあ行ってくるから、みんな頑張るんだよ。何があっても死んじゃいけないよ」と云って出かけて行きました。それがより子達がお父さんを見た最後でした。
 
(7)雨は夜明けまで降り続きました。出発の合図が掛った時、すぐ近くにいた和江さんが大声を上げました。「この子が死んでいる・・」。絶叫でした。和江さんは途中の敵機の襲来で荷物を殆ど失ってしまい、夜の寒さを凌ぐものが何もなく、乳飲み子に覆いかぶさるように横になっていました。開拓団と行動を伴にしてからはお乳も出なくなり、体力のない子供がまっ先に生きる力を失って行きました。幸太もすっかり元気がなくなっていました。昨夜は持ってきた最後のおにぎりをお母さんがかみ砕いて、それを口移しに食べさせていましたが、ほとんど食べることが出来ませんでした。濡れた体で寒さに震える幸太を、みんなで囲むようにして一晩を明かしました。
 出発してからも、すでに死んでいる子供をおぶったまま、歩いているお母さんもいました。そっと道をはずれて、我が子をねかせ、手を合わせている人もいました。それでも歩き続けて行かなければなりません。後ろの方からはドーンドーンという、戦車から発射される大砲の音が大きくなって来ました。
 途中で日本の兵隊さん達が開拓団の人たちを暗い顔つきで追い越して行きました。団長さんが「せめて林口まで一緒に行ってくれ」と頼んだのですが、「先を急がなければならないから駄目だ」と云って断られたそうです。何のための軍隊だったのでしょうか。女と子供ばかりの集団を、日本の精鋭部隊として名高かった関東軍は、見捨てて行ったのです。
  林で囲まれた小高い山の空き地に着いたのは午後3時頃でした。先頭の方へ行っていた集団からの知らせを持って、連絡員の青校生がやってきました。「これから行こうとしている林口にはすでにソ連の戦車部隊が到着していて、関東軍と交戦になったが、弾薬すら満足に持っていなかった関東軍は、たちまちの内に全滅してしまった」というものでした。
団長さん、校長先生、医者のおひげ先生、留守家族を託されていた各村の団員さんたちが、集まってお話をしていました。後ろからも前からもソ連軍、そして昼夜となく襲ってくる馬賊や入植いらい被害を受け続けてきた満州人たち。何人もの女の人がさらわれて行きました。
 最後に団長さんが云いました。「ことここに至っては、女性や子供達ばかりのこの避難民を助けるすべはない。ロモーズに蹂躙され辱めを受ける事は死ぬよりもつらい事。私も含めて全員がここで自決するしか他に道はない」と云って、皆の顔を確かめるように見て行きました。皆も同じ考えのようでした。おひげ先生がいいました。「そんなことはない。最後の最後まで生きて行かなければ、この世に生まれて来た甲斐がないではないですか。何処までも生きる望みを捨てず、この世の果てまでも歩くつもりで生きて行くべきです。」と云いました。でも団長さんや他の団員の人たちは疲れ果て、先に希望を持てなくなっていました。「満州へ来てから10年が経ち、ようやく田も畑も実りの恵みを受け取れるところまで来たのに、どうしてこんな事に」という思いが強く、これからどの様な苦しみが待っているかと思うと、「もう沢山だ」「ここで死んだ方がいい」と考えていました。
 より子のお母さんのところへ校長さんがやってきて「ここで全員自決ということなりました」と云いました。お母さんは「ご苦労様でした。今まで色々とお世話になりました」と云って、深く頭を下げました。より子は悲しみがこみ上げて来ました。「どうして・・」という悔しさが胸いっぱいに広がりました。「ねえ、これから何処へ行くの」とさと子がお母さんに訊きました。「いいところよ。飛行機も戦車もなくて、戦争もない、のんのんさんのところへ行くのよ」と答えました。「飛行機のこない、のんのんさんのところ~」と聞き返していました。幸太はもうほとんど力がなく、ぐったりとしていました。
 午後4時を過ぎて、皆がそろって正座して東の方を向いて両手をつき頭を下げました。天皇陛下にお別れをしたのです。女の人はみんな太ももを縛っていました。より子もお母さんのおんぶ紐を貰ってしっかりと縛りました。さと子もお母さんが巻きつけています。そしてお母さんは幸助を胸の前でしっかりと抱きしめました。10人程の団員さんが銃を撃ち始めました。前の方の人たちがずんずんと倒れて行きました。苦しい悲鳴が聞こえることもありました。「しっかり撃って」という声も聞こえました。より子はお母さんがそうしている様に手を合わせて目を閉じていました。銃声がだんだん近くなってきて、お母さんの顎のあたりに弾が当たった「ガサ」という音を聴いたのが、より子の最後でした。サスケがいつまでもより子に寄り添い、顔をなめ、クゥ~ンクゥ~ンと哭いていました。
 それから暫くして麻山の麓の道を、大股で東北に向かって歩いて行く人がいました。より子達を心配して探しに戻ってきたお父さんの姿でした。
          2013・8・15  曽根悟朗
 
         -Copyright by NGOs Civilian Platform JAPAN all right reserved-

新時代の幕開け

by Google
by Google

虎穴に入らずんば、虎子を得ず」と後漢書にある。相手の懐に飛び込んで、自ずから活路を見出し、互いの融和を招く。この事をもたらすには、優れた知能と未来への戦略と共に、最も必要なのが腰の据(す)わった勇者である。残念ながら今の日本の政治家の中には、これに値する者は誰もいない。寄り集まって仲間と騒ぎ立て、遠吠えするだけの輩(やから)。安倍・石破・高村の愚者集団に吸引され、与野党のすべてが同じ土俵の中で騒ぎたてるだけ。見苦しさはこの上ない。まるで子供のケンカと同じていたらく。誰が中国や韓国、北朝鮮へ直接乗り込んで虎子を得ようとしただろうか?中国の指導者達も南北朝鮮の人々も後漢書の言葉は熟知している筈。中国共産党とは真の人間の心に根ざしたものではなく、まして北朝鮮の独裁は許されるものではない。国を支配するものが誰であれ、どんなイデオロギーであれ、そこに住む人々はすべて同じ価値観を持った市民。日本人を含め、極東の国々は、本来は論語や儒教を心の支えとして社会的理念を育んできた国でもある。集団的自衛権は彼らの心をより頑(かたく)なにさせるだけ。私の父や叔父達は靖国で眠っているが、安倍のような輩(やから)に決して来ては欲しくはないだろう。大戦で亡くなった人たちが最も望んでいることは、「仲良くする事、それが我々の失われた命への最大の献花だ」と。

  6/13/2014  曽根悟朗

 

最近は安倍も石破も、はたまた高村副総裁まで、「何とか公明党に理解してもらいたい」とばかり、必死の形相である。公明党さえ理解をすれば後はこっちもの、国民等どうでもいい、といったていたらく。馬鹿につけるクスリはないというが、まさにそのとおりの有様だ。国民への配慮などは微塵もない。忘れちゃあ困るよ安倍のダンナ、石破の岡持ち、高村の太鼓持ち。集団的自衛権を最終的に判断するのは国民だよ。君たちの勝手はもう許さない。選ばれた政治家に何でも決定する権利があるというのはもっての外。火事場の空き巣狙いじゃあるまいし。YESかNOかは国民投票で決めさせてもらいますよ、安倍のダンナ。“首を洗っておとといきやがれ”とは江戸っ子の心意気。“覚悟あそばせ”と冷笑を浴びせるのは神楽坂の大姐御。!!    

   06/01/2014 曽根悟朗 
 
 石破の「集団的自衛権は抑止力」という愚劣な政治感覚に踊らされる日本。ロシア・中国・イラン、それに付随した北朝鮮、シリア等の結束を硬化させ、世界の緊張は更に高まるだけです。軍事行動を憲法において否定されている日本だけが、上海宣言参加国と欧米各国を、対話と協調への場へと導くことが出来る唯一の国なのです。拒否権がある故に国際協調への行動能力を失っている国連。憲法9条による軍事行動の全否定と、集団的自衛権を持たない日本だけが、この役割を果たすことが出来ます。安倍、石破の知能の低さと想像力の欠如が今日本を誤った道へと導こうとしています。ウクライナやシリアに於ける解決不能と思われる諸問題に対し、対話の道を構築し、新たな世界秩序へと門戸を開き得るのも、公平な理念に基づいた仲裁裁定を積極的に行う事が出来るのも、現状では日本だけなのです。「目を覚ませ・地を這うことしか知らない政治家諸君!!      05/25/2014  曽根悟朗